大判例

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東京高等裁判所 昭和31年(う)3096号 判決

被告人 千田幸夫

〔抄 録〕

A弁護人の論旨第三点ならびに第四点及びB弁護人の論旨第一点ならびに第二点について。

所論はいずれも、原判決は事実の認定を誤り、かつ自動車運転者の注意義務に関する法令の解釈を誤つていると主張するものである。

そこで記録を調査すると、原判決の挙示する証拠を総合すれば、被告人は昭和二十七年七月三十日、横浜市公安委員会から自動二輪車の運転免許を受け、自動車運転の業務に従事していたものであるが、昭和三十年五月二十三日午後三時四十分頃、自動二輪車神第九三五号を操縦し、横浜市中区花咲町二丁目七十七番地先の幅員約八米の車道と人道との区別のないアスフアルト舗装道路を同区紅葉坂方面から、野毛電車通り方面に向け時速約八粁で進行中、進路の前方約十三米の、道路中央からやや左寄りの地点に、同一方向に向け歩行中の(後に兄弟と判明した)中野徹(当時十一才)、同剛(当時八才)を認めたこと、そこで被告人は右子供たちの後方約十米の地点まで接近した時、警音器を吹鳴して注意を喚起した上彼等を追い越そうとしたところ、突然兄の中野徹が単独で被告人の進路を横切り、道路右側に駆け去つたが、これを見た弟の剛もその後を追おうとして、急に道路中央に駆け出したので、被告人は直ちに急停車の処置をとつたが間に合わず、その操縦する自動車の前部に右の剛を接触させて顛倒させ、因つて同人に全治三週間を要する左大腿挫創、左足部擦過傷、右上膊挫傷の傷害を負わしめた事実を認めることができる。検察官は、「かかる場合に自動車運転者は警音器を吹鳴するのみでは足らず、同人を道路左端に避譲させ、かつ同人の姿勢に注意して進行し、機に応じ急停車の措置に出て、以て事故発生を未然に防止すべきは勿論、同人は幼児のことであるから、何時道路上に駆け出して来るやも計り難きを以て、操縦自動車を同人に接触させないようにして運転進行すべき業務上の注意義務があるにかかわらず、被告人はその義務を怠つたものである。」と主張しているから考えてみると、一件記録ならびに当裁判所で行つた証拠調の結果によれば、本件事故の発生した現場附近は、前記のように、幅員約八米の、車道と人道の区別のないアスフアルト舗装の道路で、両側には店舗が多く、商品陳列台や自転車などが路傍に置いてあつて、ややごみごみした感があり、また附近には公立の小学校もあつて、昼間は子供たちの通行も多く、自転車や自動車などの交通量も相当多いところであるから、かかる場所を自動車で通行する者は、速度を低減して徐行し、よく前方を注視して歩行者その他の障害物に注意すべきは勿論、自動車の接近を知らせるために警音器を吹鳴して注意を喚起し、歩行者たちの動向に留意し、ことに幼児についてはその姿勢に十分なる注意を払つて、事故の発生を未然に防止すべき万全の注意をなすべき義務の存することは多言を要しないところであるから、自動車運転者に前記のような業務上の注意義務があるという点に関する限り、検察官の主張は正当であるといわなければならない。そこで、進んで本件被告人が果して右のような業務上の注意義務を怠つたかどうかという点について審究してみると、被告人は前記の地点を時速八粁という低速で徐行進行し、かつ中野徹、同剛両名の後方約十米に接近した際警音器を吹鳴してその注意を喚起したことは、検察官においても認めているところであつて、当裁判所で行つた検証結果、ならびに当審証人早川すみ、同三井昌美の各証言及び被告人本人尋問の結果を総合すれば、被告人は本件事故の発生する直前においても、よく前方を注視して運転していたが、中野徹、及び剛の二少年が被告人の吹鳴した警音を聞き、道路左端に避譲したので、被告人は同人らの右側を追い越そうとして、そのまま進行、接近したところ、突然兄の徹が被告人の自動車の直前を横切つて道路の右側に走り去り、さらに狼狽した弟が急いでその後を追い、道路の中央に飛び出そうとしたため、被告人は直ちに急停車の措置をとり、ほとんどスリップせずに停車したけれども、その瞬間に、右剛は自動車の前部左側に接触顛倒したものであることが認められる。換言すれば、右被害者が被告人の操縦する自動車の進路上に飛び出して来たのは、被告人が同人らの後方に極く接近したときであり、しかもそのような行動に出ると推測されるような予備動作もなく、全く突如として駆け出したもののように認められるから、自動車運転者たる被告人としては、これを制止する暇もなく、また他に事故発生を防止すべき適切な手段もなかつたのではないかと推認されるのである。原判決は右のような場合に「自動車運転者は警音器を吹鳴するだけでは足らず、一旦停車し、児童らに掛声してその注意を喚起しその後方に自動車のあることを確認せしめ、その道路より安全の場所に、避譲せしめ、然る後に徐ろに進行し、若しその児童らが進路左側に避譲したのであれば、同児の姿勢に注意し、更に警音器を吹鳴するほか、或は掛声を以て、或は左手を挙げて制止し、同児が咄嗟に自動車の進路上に駆け出して来ないよう万全の警戒をなし、操縦自動車を同児に接触せしめないよう運転通行すべき業務上の注意義務がある。」と説明したうえ、「被告人はその義務を怠つたものである。」と判示しているが、さきにも判示したとおり、被告人は時速八粁という低速で徐行して直ちに急停車をしうる態勢をとり、前方をよく注視していたこと、被害者たち二少年の姿を認めるや、その後方十米の地点で警音器を吹鳴してその注意を喚起し、これを道路左側に避譲せしめたことが明らかである。右の少年は当時八才と十一才であつたから、幼児とはいえ、既に交通機関による危険性については、或程度の判断力を有する筈であり、従つて同人らが自動車の接近するのを知つて道路の左端に避譲したとすれば、自動車が直ぐそばまで接近して来た時になんら予備動作もなく、突然道路の中央に飛び出してくるようなことは通常予測できないところであるから、右のような場合において、自動車運転者に原判決のいうような一旦停車、掛声、挙手制止などの措置をとるべき注意義務があるかどうかということは甚だ疑わしいといわねばならない。してみれば、被告人が前記のような情況の下において、右に述べたような措置をとつた以上、仮令原判決のいうような方法をとらなかつたとしても、自動車運転者としての注意義務を怠つたと速断することはできないのである。

これは要するに、本件の事故は、被害者の一方的過失に因つて発生したのではないかとも推測され、被告人が自動車運転者としての業務上の注意義務を怠つたかどうかという点については、必ずしも明らかでないといわなければならないから、被告人に業務上の過失責任があるとした原判決は、前記のような情況の下における自動車運転者の業務上注意義務に関する法令の解釈を誤り、ひいて事実の認定を誤つたものといわざるをえないので、破棄を免れない。論旨はいずれも理由がある。

(花輪 山本 下関)

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